
Kさんも、昭和23(1948)年生まれのバリバリの団塊世代――1972年ごろからフィリピンに居を移したので、もうかれこれ30年以上フィリピンに暮らしている。フィリピン人の素敵な奥様と二男一女のとても和やかな家庭を築かれているが、それまでの人生はまさに波乱万丈。
東京で生まれ川崎で育ったKさんは、子供時代を不幸な家庭環境のもとで過ごした。小学2年のときに母親を亡くし、迎えた2度目の母親とはうまくいかないばかりか、父親が肺がんで入院したときに家のお金を持って逃げられるという事件まで起きてしまう。その後父親は無事退院するが、食べる物にも困る生活で一家は横浜郊外の長屋へ転居。サラリーマンだった父親が一家を支えるのは想像以上に苦労の連続、Kさんも新聞配達や牛乳配達をしながら家計を助けるが、貧すれば鈍する……徐々に道を外し始めてしまう……。
そんなときに3度目の母親を迎えるが、これがまた全くうまくいかない。道の外れ方にしても徐々にその度合いとスピードは増していく。不幸な家庭環境に育った思春期の子供にありがちなパターンへ、はまっていったわけだ。そして中学生の頃は更生施設を往復と、ついには公権力のお世話にまでなってしまう結果に……。
その後生活のためには何でもやったという。ウラの世界に近い商売もたくさんあった。そんなKさんが立ち直るキッカケとなったのがフィリピンだった。当時商売で知り合ったのが、現M島知事の夫(S氏−日本人)の弟、その縁でフィリピンを訪れることになり、何度か往復するうちに1975年に永住を決意するに至る。

Sさんは当時からいろいろな事業を営んでいたので、そこに居候をしながら手伝いをするうちに現夫人と知り合い結婚、28歳、1976年のことだった。結婚を機に独り立ちをしなければと、ツアーガイドのライセンスを取得、Sさんの旅行会社で仕事を覚えながら3人の仲間と旅行会社を設立するに至る。
旅行会社を経営するうちに知り合いになった人たちの中に、当時ある島のリゾート開発をもくろんでいる人がいて、話に乗るように勧められ首をつっこむことに。しばらくこのプロジェクトに全力投球をすることになるが、参画している人たちがいい加減で、胡散臭い雰囲気が漂っていた――自分がかつて足を踏み入れそうになっていたウラの世界のにおいはなんとなくわかるものだという。また後に大変世話になるKIさんからも、「これはやめろ、ここにいたら将来はない」というアドバイスもあり、夢のありそうな話ではあったが、熟慮のあげく途中降板することを決意。自分で下した大きなdecision ――結局これは後に正しいものであったことが判明する。同プロジェクトは崩壊し、関連していた人たちは全員が亡くなってしまったばかりか、全社員も路頭に迷うことになった。Kさんはこのとき、カルマの存在を強く感じたという――すべてはわが身に返る。
それまで全力を挙げてやってきたのに、辞めることを告げたときのトップの態度が「あっ、そう」のひと言だった。今後どうするのか、大丈夫かなどという心配など一切なし――ショックだった。40歳を迎えた終戦記念日の出来事。人が辞める、進路変更をするというのはそんなに軽いものなのかと心を痛めた。この経験により、Kさんは、自分の部下に退職の意思を告げられたときは、自分の人生を決めるのは自分だから止めることはしないが、今まで一緒にやってきた仲間なのだから、「これからどうするのか、大丈夫なのか……」などと心配してあげるべきだという。人が生きるということは、計り知れない重みがあるものなのだ……。
プロジェクトから身を引いたKさんは、そのKIさんに、「お前の目は光っている、1年ぐらい修行すればきっとメシは食えるようになる」と言われたことが心に響き、アンティポーロの山奥へ行き、KIさんのもとで1年間の修行を決心する。修行は真剣勝負だ、その心意気を見せるために50万円を持ってこいとKIさんにいわれたKさんは、死に物狂いの苦労でなんとか50万円を工面するのだが、これは本当になけなしの50万円だったと当時を振り返る。
KIさんとKさんは、コリンチャン・ビレッジにあるフィリピンの大女優ノラ・オノールの大豪邸を借りてそこにこもった。修行に先立ちKIさんから渡されたものは、1冊の『漢和辞典』、『徳川家康』24巻、『岸壁の母』のVTR1巻のみ。KIさんからは一日の課題が出る――「事」という字から何を学ぶか? 一日中考えて考え抜く。次の日は「稔」という字から何を感じるか? 禅問答のような生活が果てしなく続く。そして豪邸に付随する2ヘクタールの広大な荒地を整地することが修行の一つに加えられる。朝早くから夜遅くまで続く作業はすべて一人でやる。なんでこんなことをしなければならないのか、自問自答の日々もあった。今にして思えばそれまでの人生の中で一番苦しかったときだったが、頭も一番使った、勉強にもなった。最後に見事きれいに整地された2ヘクタールの土地を見たときは感無量だった。
自然を大切にする心、信念を持ってやりぬけば必ず報われること、物事には最初と最後があり、最後のまとめをどうやり遂げるかですべてが決まること……得たものは大きかった。修行が終わったときは、齢41、KIさんからは「もうお前は自分でできる」とお墨付きをもらって山を降り、1年ぶりにマニラへ戻る。

マニラでは机一つ、電話機1台の小さな事務所を借りてサン・インターナショナルという会社を設立し、旧知の日本人にマーケティングを開始した。何でも請負う、今で言う便利屋みたいなものだ。しかしこれをベースに事業は着実に拡大、信頼する部下に裏切られたことやいやなこともたくさんあったが、カルマを信じて頑張り続けた。寝る暇もなく働く毎日が何年も続いたが、気がついたらカラオケ、パブレストラン、日本食レストラン、コンサルタント会社、レンタカー会社、PCシステム会社など従業員総勢数百名を抱える複合企業のオーナー経営者になっていたという次第だ。
Kさんはまた、在フィリピン華僑に深いつながりと影響力を持っている、数少ない日本人の一人だ。彼らとはダイヤモンド・グループという名の会を結成し、フィリピンの大物との太いパイプも作り上げた。相手が誰であろうと、言いたいことを言い、間違っていると思えばまっすぐにモノ申すKさんは、相手から煙たがられることもあるが、最後に誠意は伝わって理解してもらえたという。
そんなKさんは、これからは世のため、人のためになることをやっていきたいと目を輝かせる。貧しいフィリピンの人たちが幸せになるように努力したいのだという。自分にできることは、フィリピン人の目線に立って物事をとらえ外の世界への橋渡しをすること。その一つが、フィリピン人が介護の分野で世界一の評価を得られるようにお手伝いをすることだそうだ。どの世界でもそうだが、良いところには人は集まる。今までの経験を生かして自分ができることを実践し、トロピカル・パラダイス・ビレッジを、文字どおりパラダイスにするのだと、決意を新たにしている。
最近アツイ人が少なくなったと感じるが、Kさんは還暦を前にいまだアツイ人の一人だ。苦労に苦労を重ね地獄をまのあたりにしてきた人の話には優しさと深み、そしてしなやかな包容力がある。マーローの有名なセリフがKさんほどピッタリ当てはまる人もそういないのではないだろうか −「男はタフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」
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